実情に合わない小論文指導についてvol.4 ―帰国生大学入試についてvol.16―

(2011年1月28日 14:25)


こんにちは。SOLの余語です。
「帰国生大学入試について」シリーズのvol. 14と15では、小論文を「起承転結」という文章構成の型に沿って書くと、どのような話の流れを作ることになるのかということに関して、よく見るパターンを2つ示しました。今回は、そのような文章構成には無駄が多く、帰国生大学入試の小論文試験で大学の教員が見たいと思っているものを示すことができないということを説明したいと思います。

確かに、これまでに示した2つのパターンのように、与えられたテーマに対する自分の見解のように文章の核心となるものの説明に入る前に、テーマに関係する状況や自分のものとは反対の見解についての説明を、「前ふり」として「承」の場所に入れるというのは、大学で学んでいる間に目にする論文のように、字数の多いもの(例えば、10,000字を超えるもの)では一般的に用いられる型です。また、新聞や雑誌に掲載されている、学者などの論考でも、このように話が展開していくものを多く目にするはずです。

しかし、帰国生大学入試の小論文試験では、少ないところだと400字程度(早稲田大学など)、多いところでも1,000字ぐらい(立教大学や一橋大学など)の字数制限が付いているのが一般的です。このような字数制限の中で、自分の考えを読み手に説得力ある形で伝える能力があることを示すために、様々な具体例を用いたり、問題について多角的な考察をしたりすると、自分の考えとは反対のものを紹介するような「前ふり」を入れている余裕はなくなってしまうことが考えられます。

これは、例えば、これまで用いてきた「脳死と判定を受けた人の臓器を移植することは許されるのか」というテーマについて、「許される」という立場に立った上で、その論拠を示すということをやってみるとわかるはずです。以下で、例文を使って、ここで述べたことを実際に確認してみましょう。

【例文】
 私は、脳死と判定された人の臓器を移植することに賛成である。それは、最近話題になっているIPS細胞のような臓器再生技術が発展し、様々な臓器を人間が自ら作り出せるようにならない限り、他人の臓器を移植するという方法しか治癒の可能性がない病気が数多く存在するからである。このような病気にかかった人が臓器移植によって病気が完治し、自らの労働などを通して社会に貢献してもらう方が、臓器移植が認められず、その患者が脳死と判定された人とともに何の活動もできない状態のままでいるよりも有益なはずだ。また、日本ではこれまで脳死と判定された子どもの臓器移植が認められなかったことで、海外の病院などで臓器移植を受けた人がいる。それには多額の金銭が必要になるために、所得が多い人の家族や寄付などを集められた人のみが利用できるという問題がある上に、他国の子供で臓器移植を待っている人のものを奪ってしまうという点で、子供の臓器移植に関する日本人の自分勝手な行動に国際的な非難が集まっているのだ。(432字)
 
本来ならば、ここで述べた臓器移植が認められることによって生じるベネフィットの他に、臓器移植に反対の立場を採る人がよく指摘する「死」の定義の難しさについて、従来の「人の死」の定義にも脳死の場合と同じような問題があるということなどを書き、与えられたテーマについて多角的に考察できるところを示したいものでしょう。しかし、それ以前の段階で432字と、早稲田大学帰国生入試の小論文試験ならば字数制限を超える字数になってしまっています。

小論文試験では、自分の考えを読み手が説得力を感じられる形で論証する能力がどれだけあるのかを、出題者である大学の教員は見たいと考えているはずです(でなければ、一般入試の試験を同じ知識量を試す形式の問題を使えばいいのです)。しかし、「起承転結」に従っては、自分の考えを説明するのに十分な字数を使うことができないため、その能力があることをアピールすることが難しくなります。この点で、このような指導は小論文試験の実態に合っていないものであるということを言えるでしょう。

しかし、「起承転結」に従って文章を書くことを奨励する指導の問題点はこれだけではありません。パターンBに特有の、文章全体の説得力に関わる問題があります。次回は、それについて説明したいと思います。

それでは、今回の内容に関して質問などがありましたら、以下のフォームよりご連絡ください。

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