「個性的」な小論文を書けるようになるべきか?vol.2 ―帰国生大学入試についてvol.10―

(2011年1月6日 15:21)


こんにちは。SOLの余語です。
前回は、学者の世界で自分の見解を破綻なく形作ることが難しいと捉えられていることを引き合いに出して、「個性的」な小論文を書くことを奨励する指導に対して疑問を呈しましたが、今回は生徒に「個性的」であることに意識を置かせると、実際にどのような小論文を書いてしまう傾向があるのかということについて説明したいと思います。

まず、よく見られるケースが、小論文の中で展開する主張が、読み手に「これは書き手の思い込みに過ぎない」と思われてしまうような「極論」になってしまうというものです。これは、前回の記事でも述べた通り、学問の世界において何らかの主張を形成する時には、互いに相反する、様々な要素の一つ一つに相応の重要性を認めた上で考察を進めていかなければならないことに関係しています。

例えば、最近、東京都の条例が可決されたことで話題になっている、わいせつな表現に対する規制を許容すべきなのかという問題については、そのような表現が性犯罪や不道徳な行為を行なうことを煽り、特に精神的に未熟な青少年の健全な発達を阻害することを示すデータが提示されます。一方で、何が「わいせつ」なのかということを定義することが難しく、そのような表現に当たるとされたものに発行禁止処分のような厳しい規制をかけると、犯罪報道などにおいて社会の現状を伝えることが難しくなるという問題も指摘されています。

この問題に関して、全面的な販売規制を支持する人もいますし、表現に対する規制は断固撤廃されるべきという立場を採る人もします(生徒がこのどちらかの立場で書こうとすると、極論になりがちです)。しかし、多くの学者やジャーナリストは、上で述べたような、相反する指摘を踏まえた上で、青少年のみを対象とした販売規制を提案したり、出版社や書店などが自主的な規制を行うべきという主張をしたりするのです。このように、世の中に既に存在し、有力であるとされる学説や主張は、様々な要素の間のバランスの上に成立しています(学問の世界でなされる主張の多くは「玉虫色」のものです。現在、「玉虫色」のものは悪く扱われる風潮がありますが、学問研究活動の本質を考えると、そこに到達するのはむしろ当然のことのように思えます)。

上のような、多くの人が受け入れることのできる結論にたどり着くことは、ここでの問題の切り取り方を見る限りでは簡単なことのように思えるかもしれませんが、わいせつ表現の規制に関しても他にも考えるべきことが多くあり、大学受験生の段階で、他の人の主張を参考にすることなく、妥当な結論を導き出すことは難しいものです。しかし、「個性的」であることを求められた受験生は、既に世の中に流通しているものは使わない方がよいと考えて、このようなプロセスを一から自分で行おうとするようになります(もしくは、世の中で価値が低いとされる、人があまり真剣に耳を傾けないマイナーな学説に飛びつこうとします)。

もちろん自分の主張を破綻ない形で提示することに成功する人もいますが、バランスを取る際に重要な役割を果たす体験や知識が不足しているために、その試みは失敗に終わる(=読み手が「ただの思い込みでは?」と思ってしまうような主張をしてしまう)というのが大多数です。上のテーマで言えば、問題となっている表現が人々に与える影響について延々と論じてしまい、「わいせつとは何か」ということを定義することの難しさや、暴力的な映画などが増加している状況にもかかわらず凶悪犯罪件数が過去最低レベルにあるということを徹底的に無視したりします。

経験を十分に積んだ研究者が難しいと感じているものを、学問の世界に今まさに入ろうとする人たちがうまくできないというのは当たり前のことのように思えます。自分なりの主張を破綻なく示すことが簡単にできてしまうのなら(もしくは、短い期間しか行うことのできない受験準備を通して、十分に習得できるようになるのであれば)、大学に入学する意味など、「学歴」という箔をつけること以外ないはずです。小論文対策の指導をする教師は(僕らを含めてですが)、「個性」を重視する指導をしないよう注意する必要があるのです。

しかし、僕がこのように考える理由はこれだけではありません。「個性的」な小論文を生徒に書かせるような指導は、大学受験生をより困難な状況に追い込んでしまうのです。それについては、次回のブログ記事で説明します。

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